玉野簡易裁判所 昭和34年(ろ)58号 判決 1960年2月09日
被告人 石井冏
昭八・七・二〇生 児島市役所職員(元競艇選手)
主文
被告人は無罪。
理由
第一、公訴事実
被告人は昭和三四年七月六日午後八時頃玉野市築港五、九七五番地近土正一方附近の道路に於て橋本一則より殴打されたことに激昂し手拳を以て同人の顔面を一回殴打して附近の溝中に転落させ因て同人に全治約二〇日間を要する上顎右側前歯部外傷性急性歯根膜炎等を負わせたものである。
第二、認定事実
被告人の当公廷に於ける供述、被告人の検察官並に司法警察員に対する各供述調書、橋本一則の検察官並に司法警察員に対する各供述調書、橋本文夫の検察官並に司法警察員に対する各供述調書、証人橋本一則、同松尾節司、同樋口智恵子、同三宅幹夫、同谷口英二の各証言、松尾節司、樋口智恵子、沖修之作成の各診断書、検証の結果を綜合すれば次の結果を認めることができる。すなわち、
昭和三四年七月六日午後八時頃被告人が玉野市築港大通り五、九七五番地三宅金物店の前に立つて友人の来るのを待つていたところ大通りを北から南に向つて被害者橋本一則がランニングシヤツにステヽコをはき白布の腹巻をして裸足で走つて来たのでどうしたことだろうと思つて見ていたところ橋本は被告人の傍を通り過ぎ約三米位行つたときに振り返つて被告人を見て近寄つて来て「お前は面を切つたな」「どうしてわしの顔を見るんなら」「お前のうちは何処か」(この先じや)と被告人がいうと「この辺じやつたら家に連れて行け」等と因縁をつけたので被告人はいわれるまゝに被告人の家が三宅金物店の北側路地(二米巾位の小路)を東に入つて四、五軒目にあるので橋本と一緒に右路地に入つて約二〇米位行つたところの近土正一方店の前の道路上に差かかつたところ被告人が極力相手方に手など出させない様に自分の手で橋本の手首をおさえていたその手を突然振切り右手の手拳で被告人の左頬を強く一回殴つて来たので被告人は自分の手を以つて前方より橋本の口の辺りを強く一回突きたゝいたところ橋本は以前足を骨折してまだ足の調子が悪かつたことも手伝つてひよろついてそこの北側にあつた石垣にぶつかり又石垣と路地との間にある小さい側溝(巾約二八糎米、深さ約二〇糎米位の水の無い溝)に足をすべらして倒れたもので、その際橋本が殴つた為に被告人は下口唇切創(診断書によれば全治一週間と記載されているが一回の治療を受けた程度の傷)を、橋本は被告人に突きたゝかれた際に上顎右側前歯部外傷性急性歯根膜炎(診断書によれば加療二〇日間を要するとあるが証人樋口智恵子医師の証言によれば一回オキシドールで洗いヨードチンキを本件事件の翌日つけただけの程度のもの)を、又橋本が石垣にぶつかり側溝に倒れた際頭部右肩頭部右足背第一趾挫創右耳部顔面腰部頸部打撲傷(診断書によれば加療二〇日間を要するとあるが証人松尾節司医師の証言によれば一回消毒しただけで繃帯もしなかつた程度の擦過傷)を夫々負つたものである。
尚公訴事実に「被告人は激昂して橋本を殴打した」とあるがかゝる場合凡そ誰しも激昂していたであろうことは容易に認められるが只単に激昂した為のみの処為ではないことは後記の経緯と理由によつて之を認められるところである。
第三、正当防衛の主張についての当裁判所の判断
右被告人の所為は正当防衛であるとの被告人及び弁護人の主張について審究するに前記事実と各証拠を綜合して次のとおり判断することが出来る。
本件が被告人、橋本双方対等の立場で互に攻撃、防禦を繰返し暴行し合う単なる喧嘩争闘ではなく橋本が殆ど理由がないのに不法ないいがかり因縁をつけたが被告人はその際橋本のいいなりに従つていて喧嘩をする気は無かつたので橋本がいきなり殴つて来るとも予想しなかつたことは前記認定の経緯に徴し首肯し得るところであるから橋本の右殴打行為は被告人の身体に対する急迫不正の侵害であつたといわなければならない。そうして被告人が右侵害に対して之を回避する為に橋本の口の辺りを右手で突きたゝいたことは被告人の予期しない突嗟の侵害の下人間の自衛本能の上からも又何人を被告人と同一情況の下に立たしめても右様の措置に意識的に又は無意識的に反射本能的に出るであろうことは容易に期待できるところであつて被告人のかゝる処為は当時の情況下防衛の為止むを得ざるに出でたるものというべく、検察官は橋本の一撃で侵害は已に終り現在の侵害はない状況であるので正当防衛とはならないとの主張であるが当時の橋本は酒気を帯び且相当昂奮もして居り又その異状な風態粗暴な言動等より見て普通人の正常な常識判断を失つている者であることの一見明らかな当時の状況下から見て橋本が一撃を与えただけでそのまゝ済ますものと誰しも判断することは出来ないであろう。
若し被告人の右反撃防衛が採られなかつた場合を想定するならば恐らく被告人は橋本の為続いて殴打せられ相当の傷害を受けたであろうことを想像するに難くない。
尚検察官の本件事実のあつたのが被告人の自宅附近であるので被告人は強いて本件の如き反撃防衛の必要はなかつたので正当防衛と認め難いとの主張については本件の如き急迫不正の侵害ある状況下に於いては、かゝる事情は正当防衛を認むる理由を否定する根拠とはならない又被告人は橋本より体格もよく学校時代柔道をやつた経験もあるので被告人の所為は正当防衛に当らないと云うが橋本と被告人とは殆ど同年配であり体格も殆ど大差なく学校時代若干の柔道の経験があるからと云う様なこと等は就れも前同旨の理由によつて本件正当防衛を認むる理由を否定する根拠とはならない。
尚被告人が橋本を足蹴にしたとの点については全く右事実を認めるわけにゆかない。
以上認定判断によつて己に被告人の右反撃防衛行為が急迫不正の侵害に対する防衛上止むことを得なかつた処為と認められる以上之がため橋本が結果的に前記の如き負傷したとしても被告人がその結果迄も予見しておつたと云う証拠のない本件の場合、その予見しない結果から逆に被告人の前記処為を目して過大の防衛行為であるとも解すべきものでもない、果して然らば被告人の本件所為は正当防衛と認むることができる。
第四、結論及び適条
仍つて刑法第三六条第一項、刑事訴訟法第三三六条前段を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 篠原吉丸)